アら

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岡村が踊る 「めちゃイケ オカザイル復活スペシャル」 09:37

1/7に放送された「めちゃ×2イケてる!岡村奇跡のダイエットもうデブザイルなんて言わないでスペシャル」(公式Wikipedia)を見た。今回の放送を見て気付いたのは、番組の出演者である岡村隆史が緊張している場面がなかったことだ。


そもそも、今回は少し違うけど、一連の「岡村オファーがきましたシリーズ」(Wikipedia)の始まりは、「新春かくし芸大会」(Wikipedia)にある。芸能人が普段と違う演目を真剣に行う姿を楽しむ正月番組だ。ただ、「ものまね王座決定戦」で優勝した者が泣くようになったあたりから、練習風景など裏側を見せ、「泣き」の演出を入れるようになった。


正直に書くと、そんなにかくし芸を真剣に見たことがない。子供の頃は、再放送をチラチラと見るだけだったし、大きくなってからも、「泣く山瀬まみ」とか「年1の堺正章」などネタな部分は番宣や舞台裏番組などで見て、なんとなく知っていたが、自分からチャンネルを合わせることはない番組だった。


とにかく、年を重ねるごとに「かくし芸」の意味がボヤけていった。本業の芸が何かわからない「オールスター」なタレントが出演するようになった。それに、古今東西の大道芸を付け焼刃に覚えることが「かくし芸」になるのか疑問だった。また、「紅白歌合戦」にもいえるが、チーム分けと勝負の意味がさっぱりわからなかった。


そんな疑問を「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」(Wikipedia)では、「本人がやりたいこと」として、周りを巻き込みつつ、顔合わせから、毎週毎週追っていった。そして、社交ダンスなら実際の審査員による検定を受け、付け焼刃では到達できないところまで見せた。また、「モテたい」という不順な動機で、内村光良と勝俣州和が、ピアノを練習し、松任谷由実のコンサートに行き、お金を払っている観客がいる前で「春よ来い」を演奏するなどの企画があった。本番があったので貼っておきますか。




譜面も読めず、指も固く思うように動かないところからスタートし、ついに本番。毎週、練習している様子を見ていた会場の観客は声援を送り、教えていた先生や仲間は涙を流す。そう、これはまさに「ピアノの発表会」だ。


この「ウリナリ」での印象的な場面は、「えづく」ことだ。極度の緊張から来る吐き気だ。テレビの中の世界ではないところでの本番に、生理的に反応している。汗や涙よりも生々しい反応を見せることにより、お茶の間にも緊張を与え、真剣さを伝えていた。


そして「岡村オファーシリーズ」になる。ここでの岡村隆史は仕事を依頼されギャラをいたただく立場、つまり「プロ」として挑む。つまり、プロである以上、周りを楽しませることに集中する。自分に感情移入をあまりさせない。視聴者は、モニターを見ている矢部浩之に感情を合わせる。そのために、本当の裏側である本番前の緊張は見せない。視聴者を楽しませるためにも、泣かせないためにも見せない。矢部も泣かない。


そして、暴走する。本人が依頼された以上にオファー側の核の演目に乱入する。岡村隆史が「やりたい」こととして。そして、壊すのではなく共に踊る。これが、茶番とコントと演舞の間を流れるように巡っていく。身振り手振りで教わるダンスを身につけ、大筋の上を即興で体を動かしていく。


「めちゃイケ」は、テレビ好きの人達が作っている番組だ。言い切ってやる、テレビが好きな人達が作っている番組だ。好きじゃない人がいたら頼むから去ってくれ。とにかく、その好きな思いが、岡村隆史の歴代のギャクの完コピな動きに出ている。特に、好きなのはこのような踊りが中心の特番に土8戦争を戦っていた志村けんのアイーンとビートたけしのコマネチを踊りに入れるところだ。両方できるのは岡村隆史しかいない。


体というのは、放っておくと肉がつき鈍くなっていく。また、自分の意志じゃないところで、寒さに震え、大地の揺れに体をこわばらせる。そんな今だからこそ、再び、自分の意志で体を動かす岡村隆史を、僕らは見てしまう。ダイエット企画だと安直にまとめることも出来る。だが、岡村隆史が頭がパカーンとなり、ベットで横になり動かなかったところから、復活し、贅肉を削ぎ落とし、踊りだす姿を見ると、こちらも体を動かしたくなる。


こちらに緊張を与えず、自分の意志で動くように仕向ける。「テレビは洗脳装置だ」と言う人もいるけど、やっぱり、見る人に影響を与えてこそテレビ番組だと思う。それは、人が「伝える」という行為の願いでもあるでしょ。誰も影響されないなら、壁に向かってひとりごとを吐くようなものだし。



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2011年のテレビ 19:33

はい、今年もよろしくお願いします。


年末年始は、BS Japanで放送されていた「マーケット・ウィナーズ」(公式)が、ほぼそのままのレギュラー陣でBS12 Twellvで「マーケット・アナライズ」(公式)として大晦日に復活したのを録画したり、ホームドラマチャンネルで「お笑いスター誕生!!セレクション」(公式)を放送しているのを観たり、ヒストリーチャンネルで「映像の世紀」の一挙放送をしていたので、とうとう見てしまい、ヘロヘロになっている。子供の頃に親に連れられ、説明なしに原爆の記録映画を観て以来、爆発物や戦争の記録映画が苦手だったけど、やっと見れるようになった。それにしてもDVD-BOX高いよ。NHK価格すぎる。あ、YouTubeに誰か上げている。この「第3集 それはマンハンッタンから始まった」だけ録画を残している。




地上波も見たけど、最初から最後まで見たのは、Eテレ(Wikipedia)で放送していた「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」(公式)をTwitterで「この番組、話している内容の前に作りとしてどうなのよ?ぶーぶー」とつぶやきながら見たぐらいかな。「新春TV放談2012」(公式)は普通に見忘れた。この番組はNHKオンデマインドに対応していないのね。


もう各番組の放送時間が長いから、録画を諦めるか、途中で寝てしまうかだもん。うっかり大晦日に観てしまった「飢餓海峡」より長いもん。ま、「飢餓海峡」を観てしまったから、年末年始引きずってダメだったというのもあるかも。




去年はBSが再編成された年だった。増えたチャンネルは、単にスカパーと変わらないチャンネルなので大したことではない。ただ、先行していたチャンネルが年末年始など、通販番組でやり過ごすにはどうなのよという時は面白そうな番組が並んだと。


ほぼ日での年末年始恒例の企画「ほぼ日テレビガイド」(ほぼ日)が、テレビ欄を日ごとめくっていくごとに、BSに興味が移っていく展開になっている。僕は年末だけテレビジョンを買うんですけど、テレビ欄を眺めた時、ほぼ日の心配をしたもん。なんとか、今回は乗り切ったけど、次はあるのか。


ほぼ日テレビガイド年末年始11・12
お決まりの番組や新番組をチェックしつつ
今年のほぼ日テレビガイドも終了です。
来年もあるのかな?今年もよろしくー。 1/2のほぼ日より


2011年は地デジ以降の年(東北3県は今年の3月末まで延期)だったけど、テレビ欄を読んで楽しむなどの文化は減っていくだろうな。それこそ、BS・CSを含めた画期的な番組欄を誰か思いつかないかな。2011年にテレビ消滅とか騒がれていたけど、中身よりも、まずは周辺がやられていくんだろうな。かつてのFM情報誌(Wikipedia)みたいになるのかな。テレビブロスのコラムがテレビが観たくなるものだったら買うけど、テレビと関係ないことばかりだし。


そうそう、「ザ・テレビ欄」という各年の春秋のテレビ欄の載せた本があるんだけど、これの年末年始版が欲しい。レコード大賞、紅白歌合戦、かくし芸の裏で、何を放送していたか知りたい。


BS再編成だと、放送大学が入ったことも取り上げないと。テレビっ子の「最後の地」である放送大学が全国で見れるようになった。せっかくなので「21世紀のメディア論」は見ている。テキストも買ってみた。見ていると、マスメディアなき場で行われている、縛りプレイ、もしくはリアリティショーが、これから、さらにどんどん生まれていくのかなと。まるで、ラジオのスタートの時みたいにね。


 1920年代に入ると、戦時中は停滞していた無線を用いて音声コミュニケーションをおこなう営み、すなわち無線電話の実験活動が、世界各地のアマチュア無線家たちの手によってさかんにおこなわれるようになった。戦時には、新しく不安定な無線電話より、相対的に確立し、安定して使える無線電信が重視されていたのである。その状態から解放されたとくに若い男性にとって、無線電話は憧れの対象になっていった。欧米のあちこちで、大気が澄み渡る夜中になると、彼らは無線機を操って遠くに住む仲間たちと交信を始めた。先端的なマニアたちの夢は、地球全体を無線で覆い尽くすことによって、リアルタイムでインタラクティブなネットワークを形成し、それをもって民主主義社会を発展させていこうという、高邁なものだった。それは、1990年代にインターネットをめぐって夢想されていたビジョンと本質的に同じものだったということには留意しておいてよい。


 このころの無線機は、平板に鉄くぎやコイル、鉱石や真空管が組みあげられた無骨で、あやしげで、いつ爆発するとも知れないような「むきだしの機械の塊」だった。こうした機械の塊は、ちょうど1970年代のマイコンと同じように、10代の青少年たちを夢中にさせたのである。アマチュア無線は、少年が一人前の男になるための通過儀礼の媒介物としての位置を、生活文化のなかで占め始めていた。1912年に起きたタイタニック号沈没事件の被害者情報を72時間にわたって打電し続けたデービッド・サーノフというラジオ無線士は、たいへんなヒーローとなった。サーノフは後に、巨大電機メーカーのRCAやラジオネットワーク放送のNBCの社長にまで登り詰め、無線技術の大立者となる。


 重要なことは、電磁波科学の世界に魅入られた若者たちにとって、無線とは、遠くに離れたところの仲間との双方向の送受信活動を意味していたということである。後に無線ではなくラジオと呼ばれるようになると当たり前になる。誰かが話したり音楽を流したりしているのをただ聴くだけの行為には、相対的に低い地位しか与えられていなかったのである。これは、アメリカにおいても、日本においても同様であった。「リスナー」、聴衆者という言葉は、彼らによってやや侮辱的に用いられる傾向があった。



クリスマスイブに配信された「週刊フジテレビ批評・批評」(ニコ生)でふれていたけど、「メディア論」を聞く人の男女比は圧倒的に男性が多い。アンケートでも確か7割ほどが男性であった。でも、これは「メディア論」だけでなく、テレビがいまだに「男性が語り、女性が聴く」という作り方になっている。「日本のジレンマ」でも出演者自ら問題視している。


澁谷知美・『ニッポンのジレンマ』のジェンダー非対称性


世代括りはどうなのかとか、男女比がおかしいとか、そういう番組へのツッコミ部分はすべてカットされたのは残念じゃないか。 #etv
荻上チキ・Twitter


誰か、女性の芸人がお笑いのコンテストで1位を取らないと変わらないのかな。様々な番組の司会が芸人になったけど、吉村真理(Wikipedia)・黒柳徹子の後がいないのがな。山田邦子が頓挫したしな。うーん。ま、単純に女性ばかりの観客の番組を、僕が観る気がしないというか。番組の内容が僕に向いてない気がするのよね。女性にワーキャー言われるために、出演者の言い回しを学習するのも、なんかね、だし。


ニコ生といえば、「クローズアップ現代」もニコ生とコラボ(ニコニコニュース)していた。この放送が3/10にあり、その後東日本大震災が起きてしまい、誰も語られなくなったが「週刊フジテレビ批評」に続いてのニコ生コラボは面白かった。まさに、石橋貴明がバナナマンのラジオ番組「バナナマンのバナナムーンGOLD」のポッドキャスト(公式・文字おこし→世界は数字で出来ている)の「フレームの中」から飛び出した試みだった。番組がテレビからはみ出していくと、どうなるのか?物販だけじゃなくてね。気になる。


もちろん、震災後、フジテレビとNHKがニコ生で配信し続けたのはこの2番組があったからだと思う。フジテレビ韓流ゴリ押しデモ騒動のせいか、しばらく開いたけど「週刊フジテレビ批評・批評」が配信されたのはよかったと。


Eテレコラボ週間は、結局1つも見れなかったのよね。あれ、なんでだろう。


@nifityニュース SPA!・ニコ動社長「まいんちゃんコラボもっとやりたかった」 Eテレ×ニコ動コラボ総括


あ!そうそう、浅草という場に現れ、通りすぎていった芸人の歴史をまとめた『浅草芸人』という新書を出し、ブログ「死んだ目でダブルピース」を書いている中山涙氏が、放送1週間後のクリスマスイブにTwitter上で2回目の「THE MANZAI」を見始め、そして実況した(togetter)のよ。これがめちゃくちゃ面白かった。リアルタイムに断片的に流れてくる感想、豊富な知識、そして書き手がどんどん酩酊していく展開、「THE MANZAI」の放送時間は4時間、果たして!と気になって、タイムラインを追っていった。今年は2年ぶりの「バルス祭り」もあったけど、まだまだ、テレビの楽しみ方はあるんじゃないかと。ニコ生やustreamなどの参加とは似ていて違う面白さがあるはず。


うーん、演出や選抜されてない観客と見たいとか、一緒に観るのを選ぶなら矢口真里とではなく自分で選びたいということなんだろうな。







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しあわせのカタチ〜脚本家・木皿泉 創作の“世界”〜 09:17

年末なので、ちょっと前に放送された番組も。


NHKBSプレミアムで11/21放送された「しあわせのカタチ〜脚本家・木皿泉 創作の“世界”〜」(NHK再放送リクエスト)を観た。


脚本家木皿泉氏(Wikipedia)といえば、「すいか」観て、「くらげが眠るまで」をレンタルして、「セクシーアンドロボ」を途中で止めて、宇野常寛(Wikipedia)氏の『ゼロ年代の想像力』を読んで「野ブタ。をプロデュース」を後追いし、第1話でめちゃめちゃ胸を打たれ、「Q10」を毎週せっせと観た。


「Q10」では、高校生なのにいきなり「戦争を知らない子供たち」を歌わせたり、主人公とロボの関係、病でベットに寝たきりの子と、中心ではない赤毛の子など、木皿泉夫婦の関係が強く出た印象があった。ま、そこに演出が、ロボットがコンセントでエネルギーを充電するところから、随所に高圧電線の鉄塔を入れて、見えているつながりの線を表しており、そこがドラマに脚本だけじゃない素晴らしさがあったと。単にハイビジョンで鉄塔とアイドルがひとつの画面に入るのはカッコ良かった。「銭ゲバ」の松ケンと工場も良かったけどね。


とにかく、このドラマでは、そこまで脚本家を意識し、一見、設定の高校生と大きく乖離してしまった以上、このNHKのドキュメントとミニドラマは必然だったかも。


カメラは神戸の自宅に入る。いきなり、車椅子の乗った裸の旦那と笑顔で押す妻から始まる。車椅子のまま、シャワーを浴び、夫の髪の毛を洗う。そんな強い絵から始まり、落ち着くと部屋中の本棚に目がいく。


番組は、ドラマを作ること依頼し、その制作の過程をドキュメントタリーとして追いかけていく。そこで、木皿泉夫婦の持つメッセージの土壌を映し出す。途中で、企画した者が辞めてしまったりして、またそれが彼らに影響を与える。特に今回は「木皿泉の想い」がドラマのテーマなので、撮影場所を自宅に決めたり、各話のタイトルを夫が読み上げたり、脚本家よりはみ出た仕事をしている。夫婦の読書量から生まれる、特に番組では夫の各本から引っ張ってくる言葉をフックにして、ぶらぶらとしながら脚本が練り上げられていく。


ドラマの中の夫婦は、同じ出版社に勤める上司の妻、部下の夫という設定だ。妻が、街には沢山の家があるなかで、自分の帰る家があるということは奇跡なんだ気づく。妻が帰宅すると、夫が秋なのに部屋に蚊帳をはり、「この世の果てみたい」に自宅が更新される。「ここなら、何でも言えるみたい」と言葉に押され、つい夫にリストラを宣告する。夫は立場がないと家出をし、夫の場所を見つけた妻も蚊帳を持って家を出ていく。再び、帰る家があることは、奇跡だと噛みしめて終わる。


必要なのは会える人とその関係であり、その日常を豊かに広げるのが、生活必需品ではない飾られた物という話かな。


 そして冷戦が終わり、やがて貨幣と情報のネットワークが国家たちよりも上位の存在として定着していったとき(グローバル資本主義)、世界を支配するもっとも「大きなもの」はビック・ブラザー(疑似人格化し得る国民国家)ではなくなった。ビック・ブラザー亡きあとのリトル・ピープルの時代―それは、世界が非人格的なネットワークによってひとつにつながれた時代、世界に外部が存在しなくなった時代だ。このとき、<現実>に対置し得るものはかつての意味での<虚構>ではあり得ない。かつてのように、失われた大きな物語を埋め合わせるために<ここではない、どこか>=<外部>に消費者を誘う「仮想現実」ではもはやあり得ないのだ。既に世界に<外部>が存在しないことが明白になった今、「仮想現実」的な<反現実>はもはや機能しない。世界には終りもなければ外部もない―そんなときに<反現実>として作用するもの、それが私たちの想像力によって彩られ、多重化した<いま、ここ>の現実、すなわち<拡張現実>なのだ。 宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』より


ま、クリスマスイブにひとりでプチプチとキーボードを打ってますよ。もち、クリスマスツリーもないけどね。




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「THE MANZAI」はフジテレビの土曜日に生放送だった 05:52

「THE MANZAI」(公式)観ましたよ。夜な夜な帰ってきて、漫才コンテストなのでネットに接触せずネタバレ回避しながら楽しみ、2ちゃんねるのテレビ番組板のスレッドを読んだり、東京ポッド許可局(公式)を楽しみ、先ほどはTBSラジオの「ニュース探求ラジオDig」(公式)を楽しんでいた。


Dig面白かったっす。大根仁氏と岡宗秀吾氏のテレビマン2人からのフジテレビリスペクトあり、出演者だったダイノジの2人から、M-1から競技化した漫才と参加人数の増加によって生まれた「俺節」(Wikipedia)な熱さが語られ、マキタスポーツからは東京ポッド許可局での「バクマン」な攻略性を持った真摯な眼差しが語られていく。そこで、マネできない芸風である千鳥と、これからのお笑いはベタで万人にウケる「モノマネ」の話で時間切れだったと。


ダイノジが語った、「Hi-Hiが吉本をクビになって…」なんて話は、それこそ「てれびのスキマ」(はてな)さんあたりで、まとめられるじゃないかなと思うぐらいいい話でした。


審査方法は、M-1の第1回の審査システムを組み直した感じだったかな。優勝できなかった人達にやさしいシステムじゃないかと。「あの、クソ審査システムが」とか「なんで、あいつが審査員なんだよ」とか、「組み合わせの意味」「ワラテンw」とか叩き放題になるし、素人のボクには競技性が薄まったので攻略性が見えなくなったのはうれしい。


フジテレビの土曜日といえば「めちゃイケ」があり、生放送であれば、2004年FNS27時間テレビ(Wikipedia)の総力戦ぽさがあり、始めたからには、これから続けてきちんと「祭り」にして欲しいなと。


また、ビートたけしと爆笑問題が審査員とは別に出ており、この両者が出ていたフジテレビ土曜日の生放送「たけしの日本教育白書」(Wikipedia)を思い出した。教育について真剣な討論のはずが、生放送の魔力に取り憑かれ、同じく出演者だった小倉智昭の髪型をいじる展開になったことがあり、「タブー遊び」であり、本物と偽物の境界や、隠されているものを触れる面白さを、ついやってしまったと。ま、安全なんだろうけどね。


今回は、たけしと爆問は上手く共演させてないので、一歩先の「タブー」まで発火することはなかった。もちろん、ナイナイと爆問の島田紳助を匂わすやり取りは面白かったけど。


ということで、ナイツの決勝のネタがフジテレビのドラマをめぐりながら、ノリピーネタに進んでいくのは、実にフジテレビの土曜日の生放送にふさわしい漫才だったんじゃないかな。ドラマという台本があるものを下敷きに、同じく台本があり、稽古量も必要とされる漫才でノリピーにいく。テレビには踏み越えてはいけないものがあるように思わせ、その境界線をあぶり出して遊ぶ。もちろん、さんざんワイドショーだけでなく一般ニュースのでも取り上げたから、その境界線は偽物なんだけどさ。


で、優勝しないのもいい。「クイズ☆タレント名鑑」の不正解みたいなものだ。



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宮川大輔の「うまい!」 満天☆青空レストラン 11:50

『満天☆青空レストラン』(公式Wikipedia)を毎週観ている。きっかけは地元を紹介した時だ。検索したら(価格.com)2010年7月10日からだった。


この番組、その日のテーマの食材を収穫するところから始める。司会の宮川大輔とゲスト1組で生産者である名人を訪ね、収穫を体験する。幼稚園児の芋掘りと同じように作業し、そこに名人の食材に対するこだわりや苦労が入ってくる。すると、その食材の価値が上がっていく。


これがDASH村だと自ら作るので、食材がありがたくなりすぎちゃって、手を合わせて食べるだの、残したら罰があたるだの、そっちの方向が出てしまう。『ラーメンと愛国』の作務衣系のラーメンみたいなもの。


受け手としては、料理だけでなく、作った物を作った人からどれぐらいの距離で楽しむかというのがあるじゃん。この番組の幼稚園児の芋掘り感というのが、抜群でして、無知だけと真剣であり、収穫作業を無邪気に楽しんでいる姿が、名人との距離をそこそこつめ、親しみやすくさせている。近づくけど、結果的に完全に理解はしない(できない)というのが心地良さを生み出している。全部を受けないからこそ、そのものを自らのものに加工して手にすることが出来る。それは、食材が料理になっていく過程にも似ている。


登場する料理は『きょうの料理』の地方ロケ編やNHKBSで放送されていた『ヨーロッパ グランドグルメ食材紀行』などと同じく、食材そのものを楽しむシンプルな料理から始まり、家庭料理へ行き、最後にプロの手による手間がかかった料理へと番組は流れていく。新鮮さから熟成に移る。また、番組独自で「お取り寄せ」を行なっており、テーマ食材とは別に、その地の加工品が紹介されることもある。美味さを伝えるポイントである「時間」を感じさせる演出はまんべんなく散りばめられている。


出演者の宮川大輔のコメントは簡素だ。基本「うまい!」の一言だ。その後、いろいろ感想を言うがあまり頭に残らない。大事なのは「うまい!」の一言にある。


それこそ、料理の代表的なコメントといえば、彦摩呂の「味の宝石箱や」など喩えで表現する方法から、石塚英彦「まいうー」など業界ノリであるが単純な方に移る。そして、「うまい!」になる。要はタイミングさえ合えば、言葉に凝らなくても十分に伝わると。逆に凝ったコメントやウケ狙いをすると、料理に対して余裕があることが観ている側にバレてしまう。だからこそ、リアクションが上手く言葉の間に敏感であるはずの芸人である宮川大輔が必要になる。そして宮川大輔の「うまい!」は絶妙だ。


もちろん、これは数々の料理を口にしなければならないという構成の弊害ともいえる。一口目のインパクトだけを伝えることに力を注いでいるともいえる。でも、これはこの番組だけの問題ではない。料理の言葉としても、テレビ番組の構成としても、この宮川大輔の「うまい!」は頭のすみに残しておいた方がいいかもね。


『満天☆青空レストラン』は日本テレビ系で土曜日午後6時半からです。



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ミッション:8ミニッツ (ネタバレあり) 13:39

『ミッション:8ミニッツ』(公式)を観てきた。


死という不条理で唐突に起こる最後の出来事を、主人公と僕ら観客に何度も体験させて、最後に尊厳死や終わり方を観せてくれる映画だった。


主人公は、公式上は死者でありながらも生きている。ただ、下半身もなく、脳に直接コードをつながれた状況になっており、延命させられている。その彼が越境者として、生き残っているこちらの世界と亡くなった人たちのあちらの世界をつなげている。その彼が、最後の8分間でやった行為に胸を打たれた。たまたま、乗り合わせた人達を笑顔にさせた。この書き換えは全然思いつかなかった。後は、「ハッピーエンド」だったかな。近親者との和解や恋人との抱擁とか、あこがれの死に方なんだろうな。クラウド・ゲート(Wikipedia)の出してきた意図は何かな。


きちんと終点があるということ。そこに向かっていくなかで、繰り返されるような毎日で何をするか。半ばで、突然終わることもあると。そして、上書きが可能であると。


これは9.11から10年経ったから作ることが出来た映画だと思う。映画は現実を再現するだけじゃない。映画なりの現実への介入の仕方を示した。東日本大震災から10年後に邦画は何を出すのか。


加藤幹郎著『映画とは何か』第4章 列車の映画あるいは映画の列車より


 ところでもし映画館と駅舎の共通点をひとつだけ挙げねばならないとしたら、あなたは何を選ぶだろうか。わたしはタイムテーブルを選ぶだろう。映画館にも駅舎にも入口に時刻表が揚げられている。映画は(絵画や小説とちがって)いったんはじめられた以上は(観客が望むと望まざるとかかわらず)かならず終わりがやってくる強いられた時間芸術であるし、(もし停車と降車を拒み、永遠に走りつづけようとすれば、列車はその走行運動それじたいのなかに自己消滅するしかない)。時間の流れのなかにみずからを置くものは、すべて終局をむかえないわけにはゆかない。映画の列車が正面衝突をしたあげくにその勇壮な運動を停止するのは、いかなる長尺映画(モーション・ピクチュア)もやがてはその間歇回転運動(モーション)を停止せねばならない運命にあることを象徴的に物語っているのかもしれない。


 いずれにせよ鉄道と映画は興行的にも主題的にも、また相互の利害関係からいっても、二〇世紀を代表する花形カップルであった。次世紀といえば、むろん情報ハイウェイ(高速インターネット)と宇宙からの電磁シャワー(衛星放送)の時代である。


この映画は観終わって、テンションが上がることはなかった。しかし、繰り返し思い出してしまう映画だ。





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人は笑えるんだぜ、これだけでたいしたもんだ。 09:10

こちらの言葉は『世界は言葉でできている』(公式)でバナナマンの設楽統(Wikipedia)が出した回答だ。問題はビートたけし(Wikipedia)が『僕は馬鹿になった。』の中で綴った詩の一部が取り上げられた。


問題:人は(      )、これだけでたいしたもんだ。


回答発表後、設楽はこう続けていく。


設楽― ま、たけしさんですからね。笑いにね、一番、こう、やっぱり。


問題文の「人は」という部分に注目し、ビートたけしの核を探りに、同じ芸人の設楽が潜って掘り起こしたのが「笑い」だった。笑いが特別なことだと信じている人だから、導きだし、先輩の言葉に重ねた。


そう思うと、スタジオにビートたけしの画像が出てきた時に、立ち上がって「おはようございます」と挨拶コントしたのが味わい深くなる。番組として同じ回答席に並んだ不思議な状況を、芸人特有のしきたりを、それらの可笑しさを取り入れて表している。たけしと設楽が、ハメコミとはいえ同列の席に並ぶ。そこは敬意があるが、その照れや可笑しさもあるように思える。そもそも、ビートたけしも芸人世界とはある程度の距離を置いている。


ガジェット通信ビートたけしが島田紳助に苦言! 「たけし大物すぎ!」と『2ちゃんねる』で話題から東スポの記事を孫引き


生放送番組『オールスター感謝祭09』(TBS / 2009年10月3日18:30〜23:48放送)で、司会進行の島田紳助さんが芸人トリオの “東京03” を叱りつけた件で、ビートたけしさんが苦言をしていることが判明した。これは10月27日の東京スポーツに掲載されたビートたけしさんのコラムで明らかになったもので、次のようにコメントしている。


<紳助のせいで俺にとばっちり>
島田紳助が「あいさつがない」とかって若手の東京03ってのを怒ったもんだから、出番前にタレントがいちいちオレんとこにあいさつに来て、うるさくてしょうがないよ。オレ、出番前は結構寝てんだよ。それなのにいろんなヤツがいちいち、「よろしくお願いします」って。紳助のせいでオレまでひどい目に遭っちゃってるよ。オレんとこは、あいさつ禁止にしようかな。「あいさつ来たら、タダじゃおかねー」って。紳助の逆に出ようかな。「オレの顔見ても、絶対何も言うんじゃねーぞ」って。とにかく、あれ以来、うるさくてしょうがないんだよ。
※東京スポーツ(2009年10月27日)より抜粋


会場の言葉に敏感な大学生100人中75人が、この名言にグッときた。僕もグッときたが、あらためて書き出すと。「これだけでたいしたもんだ」の「これだけ」と上手く繋がらない。笑うことが難しい状況も人もいる。


さて、ビートたけしの言葉はこちら。


人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ。


会場の支持は100人中88人。あっちの世界のアイドルにでもないかぎりは、うんこから逃げられない。みたいな言葉であり、サクセスストーリーを築き、刑事事件を起こし、幼少期もドラマになり、交通事故後の顔も晒したビートたけしだからこそ、綴られる言葉だ。「生きて」の中に濃縮されたものを感じ、やがて訪れる「死」に向き合っている。そう思うと、やはり「これだけ」が大変に思える。なんとか生まれたけど、生きて、死ぬことができるのだろうかと?生まれて、死ぬではなく、生まれて、生きて、死ぬこと。


実は『ミッション:8ミニッツ』(公式)を観てきた。帰り道、映画の場面を思い出してしたら、いつの間にか、この問題のことを考えていたと。




それにしても、『世界は言葉でできている』は時間が短い。もっと、トークの時間を増やして欲しい。あと、フジテレビの佐野アナがニューヨークから帰ってきて、バラエティのイジリに飢えていたせいか、部外者イジリを楽しみすぎ。テレビに矯正するのではなく、どんな球でも上手く受けられるようになってほしい。ボケでいいんだけど。同じイースト(Wikipedia)が製作した『世界まるごとHOWマッチ』(Wikipedia)について、司会の大橋巨泉の自伝『ゲバゲバ70年!』から。『世界は言葉でできている』はスタジオだからこその照明に動きのある演出をしたり、超ニーチェ君の像を手渡したり、回答者のデータを残したりするなど、『HOWマッチ』の匂いを感じる。


 帰国後は『HOWマッチ』の立ち上げに全力をつくした。どんなにゴネても、やるとなったら必死に取り組むのがボクの流儀。まずタイトルは変だが、今までなかったものということで、かえって面白いと承認した。解答を日本円にするか、それぞれの外国の通貨にするかは、後者にすることを主張した。司会者としては、多少の混乱は実は歓迎なのだ。ボクは大雑把な人間なので、アシスタントはベテランの西村知江子に決めた。単なるプライス・クイズにすることだけは、断固拒否した(最初からここが問題だった。)ボクはこの番組を、クイズ形式を借りたトーク・ショウにするつもりであったが、企画側はクイズ番組だと思っていた。しかし「巨泉している」うちにだんだん解ってきたようだ。


「巨泉する」は「番組をやめると言って脅かす」こと。立ち上げの段階で「巨泉する」を連発だったらしい。『HOWマッチ』なのでビートたけしのことも書いてある。


 ビートたけしである。あえて書かなかったが、初期の漫才コンビ、ツービートもタモリ同様、七〇年代の終わりごろから月曜イレブンに登場している。一回目はさすがのたけしもアガっている様子だったが、ボクはすぐに「お気に入りリスト」に入れた。ネタは「赤信号、皆で渡れば怖くない」や「寝る前に、忘れずしめよう親の首」のような初期のものだったが、ボクは世間でいう"毒舌"という感じは受けなかった。むしろ意外性というギャグのエキスをぶつけてくると思った。漫才といっても、まったくたけしの独り舞台なのだが、きよしを句読点や接続詞として巧妙に使っていた。それはたけしが大変な早口なので、それを補うため、さらに客に笑う間を与えるためであった。ツービートとしても、その後も何回か出演してもらった。その後はたけし一人だけでゲストに出てもらったり、『クイズダービー』にも出演したと思う。期首期末のスペシャルのメンバーにも入れた。個人的にもゴルフや酒でのツキ合いが始まり、いま日記を見るとハワイで一緒に飲み歩いたりしている。毒舌で売りだした男だが、実際はシャイで繊細な男であった。非常に頭がよく、勉強もしているのだが、それは内部にしまっておくタイプである。自分のキャリアの円熟期にこんな男が出現したのだから、何とかして共演したくなって、イースト側にあんなムリを言ったのである。そして一緒に番組をやったら、この才能(タレントの本来の意味である)と一年で離れてしまうのは、もったいないと考えた。そして五十六歳まで現役を続けたのある。


なるほど、ビートきよしは句読点だったのね。そう思うと名言の読点もきちんと読んでみたくなる。


人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ。





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世界は言葉でできている 05:53

フジテレビの番組『世界は言葉でできている』(公式)をやっと見ることが出来た。これは噂通り素晴らしい。あのフジテレビの深夜番組(Wikipedia JOCX-TV2)の匂いがする。だからといって、昇格したら終わってしまう番組でもない、と思う。


この番組は、名言を超えることが目的だ。まず始めに、古今東西の有名人が話した名言が一部分が虫食いになって出題される。よくあるクイズ番組なら、その虫食いに正解を入れるわけだ。ひとつの正解に対して、無数の間違いがある。ところが、この番組はその正解を上回ることを回答者に要求する。ひとつの基準に対して、無数の正解がある。


では、具体的にルールを書きだしてみる。回答者は虫食いの中をパソコンで入力して、早押しで回答権を得る。それを観客100人がグッときたかどうかを1人1票で判定する。複数回繰り返し、回答者の票数が出揃った後で、問題の正解、つまり有名人の名言を発表する。もちろん、観客のグッときた支持票を出す。実際の名言よりも票数が多ければ、超ニーチェくんが貰え、票数(得点)が倍になる。


ちなみに、クイズ番組のように、正解を入力した場合は、その回答は有名人の名言発表まで伏せられる。そして、それ以降の回答権を失う。票数は名言の票数がもらえる。ただ、番組の要求は名言超えなので何のボーナスもない。


人は、事柄の本質に触れた言葉だと思うときに名言だと思うじゃん。でも、本質なんてよくわからない。そこで多くの名言は、とある人がいかにも言いそうな言葉が名言になっている。そして、カッコ良さがある。それは、今までにやってきた行為の果てに生み出された言葉だからだ。背景があって言葉がある。名言をとらえるには、吐き出した人物に潜ることになる。


『ジャガイモン』(Wikipedia)の企画に『伝説王』がある。芸人たちが古今東西の有名人の表に出てない伝説を生み出す企画だ。彼らならやりかねない行為を、熱くカッコよく伝説の語り部として伝える企画だ。マキタスポーツ(公式)という芸人がいる。ミュージシャンの考え方の癖を探り、その人物が作ってしまったら可笑しい題材なのに、いつかにも本人が歌いそうな曲を仕上げてしまう。


そして、この『世界は言葉でできている』だ。名言を超えるには、名言が生まれた背景を知らなければならない。だから、番組でも出題の前にキチンとその人物を紹介する。そして、この番組の要求は「超える」だ。その有名人よりも、より的確に言葉を選び、その人をとらえることが出来るのか。名言を今に更新できるのか。それによって、名言を吐いた人からの世界を獲得できるのか。そこまでの、大きい狙いがこの番組にはあるはずだ。そうじゃなきゃ、こんなタイトルにはしない。


それでいて、答えだらけのクイズ番組だから、大喜利になっている。また、その人物への理解ができていないと名言超えはできないので情報番組としても優れている。これこそ、真のバラエティ番組でしょ。日本テレビで放送されていた『ブレインアスリート』と真逆だわ。反射神経な暗記、びっくりデーターベース人間はいらない。あの番組の出場者、こちらに出ればいいのに。


あと、セットと音が好きだわ。ぶっちゃけ、Macですよ。でも、洗練されている。他の番組が、家電量販店のチラシみたいな色使いや、ファンシーグッズのようなセット、手垢のついた音だらけで、うんざりしていた。テレビも、もう一度カッコイイを目指すべきでしょ。任天堂がWiiでやったことを、今更やらなくてはいけないけど、まずはやらないとでしょ。


久しぶりに音効さんの名前を検索したよ。前に『伊集院光のてぃーぶいでぃー』を担当されていたのね。総合演出は『熱血!平成教育学院』の人なのね。改悪した『1年1組…』の方ではなくね。改悪された方はセットも目に痛かったしね。『熱血!…』ままだったら、ずっと見ていたのにな。


言葉というのは、物事をとらえる時にどうしてもこぼれ落ちるものがある。伝わらない部分だ。だから、不親切な人だと「言葉にできない」で済ますじゃん。でも、伝えたいことがあるじゃん。


え、ない?なんでもいいと思うけどね。例えば、「酔っ払った次の日は、どうも人との会話がちぐはぐになる。それは酔っ払っている時に高揚して全ての会話が伝わっていると錯覚している反動だ。」とか、あるじゃん。「パスタなう」で良いと思いますよ。RTでも「イイね!」でも控えながらも立派な発言と『明日のコミュニケーション』に書いてあったけど、そこからでいいのかも。ん、偉そうだな。ま、単に酔っ払った次の日だけじゃなく、僕の話は伝わらないの。手応えがないの。会話って難しいな。すぐ「いじり」になるな。演説になるな。話繰り返すな、長いなと。ウジウジ落ちていくが多い。


多分、名言はその日頃のウジウジを吹き飛ばすカッコ良さがある。短くて、無駄がなくて、的確で。んーあこがれる。


この世界で、人は地の果てまでたどり着き、名をつけ、そしてつながり始めている。そんな時だからこそ、言葉で世界を書き換え、更新し続けることは大事だし、カッコイイと。そして、この番組は「今」だし、テレビ、バラエティ番組にしかできないことに挑んでいると。




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映画 モテキ 14:24

はい、映画『モテキ』観てきた。祭りとして、リスナーの中に孤高プレイの上級者が多いことでもお馴染みの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』のコーナー『ザ・シネマハスラー』のポッドキャスト(MP3)も聴き終わり、先ほどAmazonから『モテ記』が届き、パラパラとシナリオに目を通したところ。


「恋は盲目」という話だった。話が進むにつれて、役名もない第三者からの目線を主人公の幸世が気にしなくなっていくと。あ、ネタバレするけど、最後に相手の彼氏が見ているはずなのに画面から消えてしまうほど、2人のドロドロな世界が出来上がって終わると。その時、僕は「あれ、相手の彼氏はどこに行った?」と探してしまったので、主人公と相手の2人の関係に没入は出来なかった。あの2人がドロドロになるのは良いことだ。


宇多丸さんは「史上最強の長澤まさみ」と言っていたけど、彼女が演じた役は、一番避けたいタイプだわ。あれ、サブカル的カツマーじゃないの。自分のスキルアップ、センス向上に全てを利用し尽くす、とりあえず、数をこなす。人ぽくない。マシーンぽさは感じる。あんまり、エロくない。エロさって見た目じゃなくて、反応じゃないの。


ま、映画全体に数こなしたカルトキングの世界、腕立て300回ぐらいのマッチョぽさはある。「スゴイ、さすが鍛えてますね。この筋肉、よ」とは思う。で、るみ子の問題になるんですけどね。


麻生久美子演じる「るみ子」というのがいるんですよ。一人カラオケをよく行い、その行為が人に堂々と言うことではないと思っている。竹内まりや、B'z、JUDY AND MARYなどを歌う。その彼女が、モテキ中の主人公に告白し、寝て、捨てられると。その時に


るみ子「(ぐちゃぐちゃの顔で)ごめんなさいごめんなさい!ちゃんとするから私!勉強するからそういうの、幸世君の好きな服とか映画とか音楽とか、だから重いとか言わないでぇ、ちゃんとそういう雑誌読んだりとか神聖かまってちゃんとかゆらゆら帝国とか聞くから……うえええ……うえええ……B'zとかもう聴かないからぁ……」『モテ記』第五章『モテキ』決定稿より


と泣いてすがる。結局は


幸世「(その顔に持っていかれそうになるが)……ごめんなさい……でもオレるみ子さんとじゃ、ダメだ」

るみ子「……(泣き声止まって)……またかぁ……」

幸世「?」

るみ子「またこのパターン……成長しないなあ……」

幸世「……」


るみ子が泣き止むところ、あんまり覚えてないや。映画だと「Youtubeで見て、勉強するから」的なことを言っていたような気もする。その後、星野源の『ばらばら』が流れる。ちなみに、この曲、サントラに入ってないじゃん。シナリオに書かれていた参考URL、ニコ動だから「権利者」により削除されているし。iTunes storeにも売ってないし。結局、『ばらばら』が入っているアルバム『ばかのうた』を買った。この曲がこの映画に一番しっくりきた。映像も『(ハル)』(YouTube)で描かれた日常みたいだった。とにかく、最近、権利に熱心なYouTubeからどうぞ。





で、るみ子は幸世の上司を寝て、何か悟ったのかスッキリして、牛丼を食べに行く。シナリオによれば初めての牛丼らしい。がっつり食べておかわりして、あまりの食べっぷりに周りが見とれてしまうと。


これは「肉食女子」になったということ?その「あがり」方しかないのかな。ここが一番引っかかりました。戦って、経験値ためてレベルアップしかないの?東電OLにならないの?ナタリー読んで、おしゃれでセンスが良い物探し競争をすればいいの?


この映画、TwitterとYouTubeがよく出てくる。どちらも、「純化」する行為に向いている。これ、主人公がナタリーではなく、ガジェット通信に勤めて、ニコ動ばかり見ていたら話は変わっていたのかなと思ったりはした。NG機能が強化されたとしても、ノイズが入るじゃん。ノイズには、物事を止める抵抗力がある。映画だと、主人公がモモクロの曲を聞いて高揚して、いざ告白するところを真木よう子の飛び蹴りで止める件、また、その後のTwitterのパスワードがバレて「電車男」ぽい指南とかあったけど。


ガジェット通信が、ネットWatch部分が大きくなり、テレビが開発した日曜日の討論番組の内容をそのままニュースとして扱うやり方を、ユーザー生放送まで広げているわけで、そこに主人公が勤めたら、全然違う話になるかなと。


『モテキ』は「思考が停止」じゃなくて、「思考しすぎて停止」の問題を扱っている。減点恐れて身動きがとれない人じゃん。じゃあ、動物のように逃げたら追いかけてやっちまうのが良いのかと言われるとね。うーん。


読書猿  こうつぶやく→自己非難を無効化し集中力を高めるたった2つの言葉


上司も「文化的雪かき」を覚えたら、狩りに行ってよし、「走れ!」というのもね。


実は『モテキ』を見る前に『マルホランド・ドライブ』(YouTube)を観ていたので、「これ、夢パートじゃないか?この後、現実くるでしょ」と少し思いながら観ていた。そこまで、落とされずに終わって、ホッとした。軽い気持ちで映画館を出れたよ。


さて、監督した大根仁氏は次に何をするのかな。楽しみ。





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探偵はBARにいる 09:24

200円引きの割引券ももらったし、軽い気持ちで『探偵はBARにいる』(公式)に行ってきた。午後8時からの回のせいか年齢層は若めだった。




大泉洋演じる主人公は探偵だ。感情に流されない強靭な探偵のつもりだ。だが、観客からしてみれば「時間が止まった人」にしか見えない。携帯電話も持たない。相棒の車はボロボロの光岡自動車のビュート(Wikipedia)だ。それでも、探偵業はそこそこ上手く回っており、まるで主人公だけではなく、彼らの街だけ時間が止まっているようにも思える。それこそ、『探偵物語』(Wikipedia)を熱く語る人たちの世界が、放送開始から32年後の2011年に東京から遠く離れた北海道のススキノにまだ残っていたようにさえ思える。




コスプレもモノマネもとっくに過ぎ去り、N次創作に残るような「こだわり」の欠片が可笑しさを生む。「探偵とは」と形から入る人ように思え、観客から見れば、もはやベタなんだけど笑ってしまう。ベタすぎてパロディコントになってしまうところを、上手く踏みとどまっている。それは大泉洋の容姿と立ち振る舞いのおかげだ。松田優作から大泉洋へ。この差が、主人公が「まだこだわっている人」としてのリアリティを獲得している。もちろん、大泉洋のモノマネが達者、テレビ好き、妙にこだわりというか好き嫌いや苦手なものがあることが、透けてみえるから成立しているところもある。


で、その大泉洋のとなりに松田龍平がいると。言わずも知れた松田優作の息子だ。彼が眠っていようが、反応遅く切り返そうが、その場にいることで、この映画に重みを与えている。


この映画はオセロが出てくる。BARで主人公と相棒の2人で興じている。映画も状況がひとつ進むたびに、彼らは、黒なのか白なのかとコロコロ変わっていく。


そして、オセロには角がある。一度、そこに入ってしまえば、その色は変わらない。この角こそ、登場人物たちの「こだわり」に思える。何かが起きたとき、心境の変化を迫られる。たとえ盤面は真っ黒なってしまっても、一度角に入った白は変わらない。


何が変わり、何が変わらないのか。それが『探偵はBARにいる』という映画でした。






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